2012/06/09

ワット・アルン(Bangkok)

暁の寺といわれるワット・アルン(Wat Arun)はバンコクで行くべき寺院の1つであるのは絶対だろう。とにかくここの寺院の見ものは装飾がすばらしい仏塔であるのは言うまでも無い。ホテルからタクシーで直接この寺院までいくことにしたのだが、それはワット・アルンがチャオプラヤー川の向こう側にあるからである。朝の涼しい時間帯に行った方が絶対いいだろうとおもったので、朝一番にいくことにしたのだが、やっぱりある程度時間が経過してくると、バンコクはどこにいても蒸し暑くて大変だった。

しかし、タクシーを降りて、寺院の敷地に入ってくると、もういきなり目の前にデカい仏塔が飛び込んでくるので、それだけでもうわぁー!と驚く。なにしろ、聳え立つというのはこのためにあるような言葉だろうというお手本のような建て方で仏塔が立っているからであり、その高さも一番高いところで75mもある。もちろん、この仏塔、上る事もできるから、下から眺めるだけではなく上に上ってみるというのもいいだろう。

下から石塔を眺めていると、これが全部石とガラスとタイルでできているので、遠目で見るとこのモザイク模様がとても綺麗に輝いて見える。近寄って見るとそれぞれを構成しているタイルが剥げているのでちょっと残念な感じがするのだが、ここではそんな細かいことは気にしてはいけない。大きな心で寺院全体を見たほうが良い。そして、石塔の高さにはびっくりなのだが、この石塔はどうやって作られたのだろうか?とふと疑問に思った。エジプトのピラミッドのようなところだと、生成された大きな石の塊を大人数で運んだというのがよくわかるが、ワット・アルンのようなところの石は個別に1人1人が運んだだろうし、あの狭い場所をどうやって積んでいったのだろうか?と不思議に思う。

1基の石塔に上って見た。階段状になっているところは、昔の日本家屋のように妙に1段1段が高いので、とても上り難い。そして、1段ごとの足を載せる場所が結構狭いということに気づく。さらにいうと、もう何万人のひとがこの仏塔に上っているからだろうが、段の淵の部分は下に下がっているように削られているので、上る側からするとこれは非常に上りづらい。なにしろ、踵が下がっているからであり、こういう状態では結構不安定になっていているために上りにくいからなのだと思う。

逆に下りるときは実は怖い。階段自体が結構急になっていることと、階段の淵が下がっているようになっていることは、競泳用のプールのスタート台のようになっているため、階段を下りるときは前かがみになっているような形になるため、1歩ずつ下りるのが本当に怖い。たぶん上のほうだとまともに前を向いて下りれないだろう。蟹歩きのように横を向いて下りるしかなく、酷いところだと、後ろ向きになって手を階段につきながらじゃないと下りてこられないような形だ。どうしてこんな急なものを作ろうとしたのか、本当に不思議である。

ただ、このように尖端になればなるほどほぼ直角になるような建て方になっているため、仏塔としてのシルエットは本当に見事である。下からの仏塔の姿は本当に綺麗。もちろん、仏塔の上からの景色はというと、これがまた想像とはちょっと違った風景が見られる。実はチャオプラヤー川のすぐ傍に建っているため、仏塔の上からの眺めは、チャオプラヤ川で船が行き交っている様子が見られるし、蒸して暑いバンコクの中でも風通しが良いのでとても気持ちが良いと感じるところだ。また、地上を蠢く虫のごとく観光客たちをゴミ扱いで見られるところもおもしろかった。
寺院内には金メッキで被われた大黒様みたいなものやなにかの神様が立っているのだが、こんなスコールはあるは、洪水があるかもしれないところに、よくもまぁ露出状態で立っているなぁーというのは毎度ながら不思議に思う。しかし、信仰心の強いタイのひとにとってはこういう神様の像は誰かが慈悲で手入れをするものなので、劣化したあとでもすぐに元のように修復することになるんだろうとおもう。

敷地内にはくだらないものばっかりを売っている売店溜まりみたいなところがあるが、ここは本当に存在不要。必要なのはトイレくらいだろうか。しかし、ここのトイレ、生意気にも有料制なのであるから、トイレのおばさんにお金を払う必要がある。トイレのおばさんがいるだけあって、ゴミ溜めみたいな売店エリアにしては、すごい清掃がされている。そこは褒めたいところだ。しかし、あのセンスの無い売店は何を観光客に売ろうとしているのだろうか?暑くて蒸している売店の溜まり場なので、たぶん観光客は熱気で朦朧として、そのために何を買わされるのかわからなくなっているだけじゃないのか?

ここは仏塔ばかりが目立つのだが、実際には寺院なのでやっぱり本堂がある。その本堂をほとんど見ないで、仏塔だけを見て終わりという観光客が多いようなのだが、やっぱり本堂に設置されている仏像なんかも見たほうが良い。本堂は仏塔が並んでいる隣に設置されており、二体の巨大な守り神の像が前に立っているから分かりやすい。やっぱりこういう本堂の前には守り神がどこの世界でも存在するのだが、日本の寺の狛犬なんかは可愛いもんであり、これだけ「わしらが守っております」というのが露骨だと、訪問する側もなにか気が引き締まる思いは出てくるが、ほとんど威厳のために立っているだけの木偶の坊だと考えると、ちょっとおかしくなってしまうのは不謹慎だろうか?

しかし、なんでタイの仏像はなんでもかんでも金色なんだろうか?日本の仏像を中心になって見慣れているからなのか、日本の場合だと初期のつくりに手を入れることは不謹慎だという考えがあるからか、最初は金色に輝いていた像も、そのうち時間が経過するうちに金箔が剥げてきて、下地の木が見えてくるようなものがふるめかしくて良いと思われることが多い。むしろ、有り難いと思っているところがあるのではないだろうか?しかし、中華圏を中心としたほかの地域では、常に手入れがされていて、常に新しい状態を保っていようというのが良いことだと考えられている。だから、色が剥げている像なんかは、誰からも相手にされていない可愛そうな像であり、そういう像に対してはありがたみを全く感じないから訪問する価値も無いと思われているのだろう。その負のスパイラルによって、寂れた寺院はさらに寂れていくということになるようだ。だから、ここの本堂のように、中心に大きな仏像があり、その周りに囲むように小さい仏像が立っているというのもなかなかおもしろい構図だ。そして仏像の前は余計なものがあまり置かれてなく、仏像の傍まで寄れるというところが良い。ただ、タイの場合は仏像の前では正座するのが基本なので、あまりじろじろと近くに寄って立ったまま見ているのは不謹慎に思われるのだろう。

よくわかんないのは、タイのお寺の中でよくみかけた光景だが、お賽銭を奉納するのと同じ感覚なのかもしれないのだが、真ん中あたりが割れている矢にお札を挟んで奉納しているという光景。これはやっぱりなにか祈願するために、お金をつつんでいるというものなのだろうか?確かに賽銭箱みたいなのはあったりなかったりするし、賽銭箱みたいなのがあったとしても、それは箱の中が丸見えになるようになっているタイプしかない。

ワット・アルンから対岸のワット・ポーには、渡し舟で行くことは可能。ワットアルンの川上側にあるところが乗り場になっており、ワットアルンの真正面あたりに船着場も結構あるのだが、ここは観光客目当てにぼったくり観光ツアーが出発するための船着場である。公の交通機関の船着場だけあって、やっぱりみすぼらしい見た目になっている。値段はひとり3バーツ。

ワット・アルン (Wat Arun Ratchawararam Ratchawaramahawihan)
URL : http://www.watarun.org
Open : 8:30 - 17:30
Admission Fare : 50THB

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