2012/09/29

オラニエ公ウィレム1世(オランダ)

オラニエ公ウィレム1世は近代オランダの礎を作った事実上の君主。国王というわけじゃない。地位としてはオランダの提督として統治していた。提督というからには、どこかの人、または国に対して忠誠をたてていたわけなのだが、それがブルゴーニュ公国。このウィレム1世の話をする場合には、どうしても、オランダ独立に結ぶことになった80年戦争のことを避けるわけにはいかなくなる。そして、その80年戦争を事実上率いていたのがこのウィレム1世だからだ。しかし、あくまでもこの人は国王ではない。提督というよりもオランダのリーダーであった。ただ、この80年戦争のときには、まだひとつの国家としてオランダが存在していたわけじゃなく、緩い連邦国家だったといったほうがいい。いわゆるネーデルランド17州連合国である。それぞれの州には、ブルゴーニュ公国に従属する諸侯が存在していて、ウィレム1世はその単なる1諸侯のひとりだったということ。このときのウィレム1世は、ゼーラント州と、ホラント州の諸侯を兼務。ちなみに、ネーデルラント17州というと、いまのオランダ・ベルギー・ルクセンブルグの3国あたりの領土の位置を指す。だから、これらの国々はいまだに世界から3国同一化されて見られてしまうという歴史でもある。

ブルゴーニュ公国はその後にハプスブルグ帝國の領土になるわけだが、そこからがオランダ自体がざわめきだつことになる。巨大帝国・ハプスブルグ家の領土は、スペインとオーストリアの2家に分家することになり、そのスペイン側にオランダ領は含まれることになる。このスペイン側になったハプスブルグは軍事がすごかった。そして、カトリックの伝道師という自負をしていたことにより、プロテスタントの流れが激しくなってきたオランダでは、プロテスタントは異端児だというレッテルを貼られて、拷問等のひどい仕打ちをうけることになったため、ネーデルラント17州では、ハプスブルク家からの支配から独立しようと働き始める。それが80年戦争。

ただし、正確に言うと今のオランダの基礎を作ったが、現状のオランダ王国がそのままこのときに作られていたかというとそれはウソ。なぜならいまのオランダは、ナポレオンによるヨーロッパをぐちゃぐちゃに荒らされたときに、一時期フランス帝國になったわけだが、ナポレオン帝國が崩壊したあとの整地会議であるウィーン会議の1815年に独立したのがいまのオランダ。このときのオランダ王国設立時には、ウィレム1世の子孫であるウィレム6世が初代の国王であり、ベアトレクス女王はウィレム6世の子孫である。したがって、いまの王家は、ウィレム1世の子孫であるために、オランダの各地を廻るたびに、ウィレム1世の像がどこにでもあったりするわけである。しかし、このウィレム6世は別名「オランダ王ウィレム1世」とも言われているので、ウィレム1世と書くと、どっちの人のことを指すのかわけがわからない。初代のウィレム1世は「オラニエ公」であり、あとのウィレム1世は「オランダ王」である。やっぱりヨーロッパの人の名前は同じような名前ばっかりなので、頭がおかしくなる。

さて、初代ウィレム1世、オラニエ公のほうだが、このひとは居住地としていたユトレヒトのプリンセンホフ提督館(現在の博物館)で、フランス人に狙撃されるという事件に出くわし死んでしまう。このあたりの死亡については、別途プリンセンホフ博物館の章で記載したいところだ。

いまでも女王は人気があり、その祖先であるウィレム1世公もまだまだ人気がある。

0 件のコメント: