安平地区の見所の1つになっているのが億載金城であるが、ここも結構普通になにも交通手段をもっていないひとであれば行きにくい場所ではある。バスも通っていないし、電車ももちろん通っていない。となると、レンタカーを借りるかタクシーで行くしかない。おまけに、億載金城は港町に近いとはいえ、タクシーも車もあまり通らない場所と来ている。団体のバスツアーでくる観光客は当然来る場所だとは思うが、ツアーではない観光客にとっては場所が悪い。一級史跡ではあるとおもうが、行きにくいというハンデのために行かないというのはもったいないと思う。
さて、億載金城に行く前には、絶対に知っておくべきキーワードがある。それは1874年の牡丹社事件である。詳しくはウィキペディア等で調べてもらうとして、これを契機に日本は台湾へ目をつけるようになり、さらにいうと軍としての力と、国際的な圧力の経験をつむようになっていくターニングポイントになった事件がある。
いつ崩壊してもおかしくないような王朝末期になってしまった清朝としては、いちおう台湾は台湾省を置くくらいのところであり、いちおうは自国領土としていたが、それは台湾島全部というわけではなく、漢民族が住んでいるような主要な西側だけを領土と勝手に決めていた。だけど、東側で起こった事件で日本が台湾にジャンジャカやってきたことにあせった清朝は、台南のような港の整備があるところに日本に対する防備を作ることにした。その1つが億載金城を作った。
ここに「二鯤鯓砲臺」と呼ばれる巨大な砲台を海に向かって設置し、かつ敷地内に造船ができるような設備を持った要塞をここに作ったのである。この要塞は、フランス人技師ベルソールとロウヴェンがパリのバスティーユをイメージして星型の保塁を建設した。だから、上から見ると、これは函館の五稜郭のような形をしている。どうやらこの時代の城造りというのは、デザイン性を重視した造りが多かったのだろうと思う。運河の一部を引き込んで作った壕に掛る橋を渡り、二鯤鯓砲臺城門という保塁の土手をくりぬくような入り口を入ると、そこはまるでサッカーのピッチに来た様な雰囲気に包まれる。自分達がピッチに居て、周りを観客のスタンドで埋め尽くされているという閉じられた空間と全く同じなのである。広い空間の右のほうに記念碑が建っているが、これは牡丹社の犠牲者を鎮魂するための碑であり、日本人がいかにひどいことをしたかというようなことを記載しているつまらないものだ。
保塁の土手には上ることができ、一周をぐるりと廻ることができる。一番のメインはやっぱり、城門と真反対のところに、海の方向へ向いて設置されている巨大な大砲だろう。そんじゃそこらの大砲じゃない。しかし、実際にはあまり遠くまで届かなかったようだ。大きな大砲だけじゃなく、あとは小さい大砲についてもたくさん設置している。考え方は、海から攻めてくる敵艦隊を撃つためのものなのだろうが、これは陸から攻められたり、小型船や俊敏な動きができる小型船による上陸が起こった場合には太刀打ちがえきない。鄭成功がオランダ軍をやぶったときに、陸のオランダ軍はあっさり敗れてしまったという経験をしているにも関わらず、民族が違うからか、清朝は全く歴史を学んでいなかったようだ。
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