台北最終日はホテルから近いところにある行天宮から行くことにした。ホテルから歩いて5分以内にある観光名所であるため、こんなのは本当に時間があるときに行けばいいかなと思っていたのである。意外に台湾出発までの時間があったので、忠烈祠でも行こうと思ったのだが、それは前回も行ったことがあったようなので、今回は止めにした。それにしても、デパートに行こうかなとおもったが、朝の9時ごろには日本もそうだがデパートなんかやっているわけがない。一般の店さえも開店していないのだ。こういうときには、朝から参拝を許可している神社・仏閣に行くしかない。行天宮は朝4時から開いているので、早起きのひとにとっては、ぜひ暇なら行ってみるべきところだろうとは思う。
実際には両親も行天宮に行くのは二度目だったらしいが、初回に行ったときの印象がとても深かったようなので、再リクエストが唯一出た観光地である。前にも来たことがあるのだが、この寺だけはどうしても本堂がある場所のそばへ寄って、写真を撮ろうとするのをためらってしまう。なぜなら、参拝しに来ている人たちが、必死になって願掛けをしているため、全然信仰がない自分達がご本尊の傍で、カメラ片手に指差しをしながら、あーだこーだと言うと、その参拝客たちがあまりにも自分達の後ろにたくさんいるため、そんな人たちから「奴らは一体何をしているんだ?邪魔だからどいてくれないかな」と思われるのがオチだからである。台湾人の多くは自分の宗教を関係なく、こういう願掛けのためには必要な寺にいくということがある。これは日本でもキリスト教徒でも神社へ行ってしまうというのと似ているのかもしれない。
あと、しばらく参拝客の様子を見ていて、変なことに気づいた。
参拝客はお供え物として、水、お菓子、果物、野菜等々のものを献花台のところに置いて、必死になってお祈りをしている。たくさんのひとたちが同じようなものを持ってきて、参拝しているのだが、一体これらの献花台に置かれているものは、最終的にはどうなるのだろうか?と思っていたところ、ある人が持ってきたお供え物を、別の人が勝手に持って帰ってもいいというルールになっているらしく、うまいことに、そんなに献花台のところにたくさんのお供え物が揃っていて邪魔臭いということにはならないのだということに気づいた。一度神に捧げたものは、ありがたいものと同格だからということなのだろうか、みんな悪びれることなく、好きなものを持って帰る事にしている。生ものの掃除をしなくても良いといういう意味では、とても都合の良い整理整頓方法だとは思われる。
こういう寺が傍にあるということは、お寺に来れば何かしらの食べ物は転がっているということもあるので、貧しい人にとってはとても便利な救済所にも適用できるということだ。ただ、そんな人は残念ながらこの日にこの寺で見かけることは無かった。おそらくほとんど泥棒同然のような人は、見回りのひとやお寺の檀家の人たちに怒られるのだろうと思う。
行天宮は商人の神様である関羽が祀っているところでもあるので、祈りをしているひとたちの多くは金の亡者のような思いを持っている人たちが多いことなのだろう。彼らの脳みその中で考えていることの多くは金のことばかりだろうからだ。半分冗談で、おみくじの番号を適当に引いて、それについて寺のおばさんに聞いてみたところ、「なにについて知りたいのか?」という問いに、うちの父が「今回の旅の様子について」と聞いたところ、「そんな詰まんないことを聞かないで、もっと金儲けができるかとか、宝くじが当たるかとか、そういうのをお祈りしたんじゃないの?」と逆に怒られてしまった。
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