5月1日はメーデー。どこに行ってもお休みをしているので、店や建物じゃないようなところばかりを観光旅行するしかない。そんなときには近くの公園や町ブラくらいをしていたほうがいいだろうと思う。またはホテルにアミューズメント施設があるならその中で過ごせるんだろう。
残念ながら今回の宿泊したところでは、ラウンジくらいしかまともに使えるところが無いので、表で遊んでいたほうがいいからとメーデーでは出かけることにした。
一番近いところにある無料施設は、大きな国旗がはためいているエドゥアルド7世公園(Parque Eduardo VII)というのがある。このエドゥアルド7世というのは、名前からみてもイギリス人。1907年に当時のイギリス国王がイギリスとポルトガルの同盟締結のためにリスボンにやってきたというものだ。
そもそもイギリスとポルトガルはなんで同盟国の関係になっているのかというのは気になるところ。ポルトガルは先に海洋国家になり、アジア・アフリカ・中南米に植民地をたくさん作ってきた。イギリスはあとから海洋植民地を建設することになったわけなので、本来ならイギリスがポルトガルから習う関係だったというのであればわかる。もちろん、ポルトガルがその国土の小ささにも関わらず、植民地をたくさん作ったことは、それを維持するための国力が無かったために、オランダやイギリスに植民地を奪われるという結果になった。そこをイギリスが根こそぎ掻っ攫った結果にはなる。だから、イギリスがポルトガルのマネをするなら分かる。その同盟かというと、そうじゃない。ポルトガルはなにかにつけていつもイギリスに助けて貰っているのである。
ナポレオンがヨーロッパ全土を領土化しようとしていたときにも、イギリスに泣きついてポルトガル王室がブラジルに逃げるときにもイギリス海軍の助けで護衛されていたし、隣国のスペインとの統一国王を立てたときに、スペインによる一方的なポルトガルの人民を苦しめていたときにも、イギリスに助けて貰った。ポルト地方のワインの最大消費地もワインが生産できないイギリスだったし、ブラジルで産出される鉱物資源についても、全部ポルトガル経由でイギリスに渡ってしまった。最終的にはイギリスの経済消費のために、ポルトガルが国家としては対等でありながらも、国家的植民地になっているのと同じ関係だったわけである。第一次世界大戦のときには、地中海の入口を持っているポルトガルを、イギリスは同盟化したいと思っていたのだろう。なにしろ、敵国オーストリア・トルコは、地中海の内部のほうに海軍を持っているので、内海の入口を確保しておけばなんの問題もないと感じたに違いない。
1907年というと、もうだいぶリスボンの町も近代化していいはずなのだが、この高台にある土地はあんまり何も使われていなかったかもしれない。そんな場所に大きな空間を使ってこの公園を作ってしまったというのは、本当に何も無かったんだろうといえよう。でも、一番の目抜き通りの高台であるからには、おそらく本来なら何かあってもよかったのではないだろうか?ただ、ここは高台。いまでは斜面を利用して、みとおしがいいつくりになっているのだが、それは高台を削って作っているから観やすいのだが、昔ならきっと高台が崖のようになっていて作りにくくかったかもしれない。
公園の下のほう、ボンバル侯爵広場から国旗がある場所にあがっていこうすると、坂道を利用して、庭園が造られている。その庭園がまぁ見事。幾何学模様になっていることと、中には絶対入れないような仕組みになっているので、手入れがちゃんとしているから観ていて楽しい。庭園を見るためには、庭園の両側に遊歩道があるため、ここを歩くのがいいだろう。両側の遊歩道は、どちらの側も幅がひろく、並木道になっているので歩いているだけでも楽しくなる。
一番高いところには巨大な旗があり、その旗が風で靡いている様子は優雅ささえ感じる。そしてこの高台から見下ろししている様子が、リスボン全体を見守っているという様にも見えてくるから面白い。あんまり風があるわけでもないのだが、なんであんなに靡くんだろうというのが不思議だ。
エドゥアルド7世公園の東側のところには、ブラジル独立100周年記念を祝った建物があるのだが、この建物の手入れがめちゃくちゃ悪いし、いまは何に使われているのかよくわからない。ところが、1つだけ褒めたいのは、この建物の壁はアズレージョがとても綺麗であるというところが見ごたえはある。しかし、残念ながら、ここにも街全体に蔓延る落書きの魔の手からは逃れなかったらしい。
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