カピトル地区にある大聖堂といったら、聖母被昇天大聖堂 (katedrala Marijina Uznasenja)であろう。ドブロブニクにも同じ名前の大聖堂があるのだが、ザグレブのほうが規模も大きさも断然大きい。だから、クロアチアの中では一番大きな大聖堂なのではないだろうか?ドブロブニクの場合は、町全体が小さいために、その大聖堂を建てる場所もしょうがなくここに建てたというようなスペースで作られているが、ザグレブの場合にはかつての町の中心地として君臨していただけあって、好きなだけ教会だけではなくその周辺も含めた場所を広く取ったようなので、周りから見てもこの大聖堂がとても大きく見える。
周りに何にも無いからかもしれないが、2本の100メートルを超える尖塔があるために、これがどこからでも良く見える。特に、高台のゴルニィ・グラードの地区からみれば、一発でどこにあるのかわかる。どっちの方向を見ているのかがすぐわかる。それに写真を撮るにも遠くから離れても、間近から撮ってもいかにも教会にやってきましたーというのがわかるくらい写真の撮りがいがある対象物だろうとおもう。
建物の外観が厳かに見えるだけではなく、この教会、中に入るといろいろ初めて見るような出来事に出くわすことができるので、絶対ザグレブに行くときにはこの大聖堂を見るべきだし、その内部には詳細まで見ることをお勧めしたい。というのも、この大聖堂に関しては歴史ととにかく深い関係があるし、その歴史が至る所に見ることができるからである。
まず、教会の外部から。
教会の建物自体はネオゴシック形式でられられているのだが、その建物、いまでは立派な2本の尖塔が建っているのに、近代になるまで、この尖塔のところが柔らかい砂岩で作っていた。なんでこんな馬鹿なことを考えたかというと、建築費不足と建築資材の不足が原因だったらしい。やっぱり柔らかいのでさっさと痛みが進み、20年もたたないうちに痛みが激しくなってしまったという。現在の立派な形になったのは、なんと1990年代に入ってからであり、砂岩ではなく石灰岩に置き換えることで腐食を防ぐことに成功している。
続いて教会の向かい正面を見て左側に、意味のわからない壁みたいなのが一部見える。実はこれ、大聖堂を含めたカプトル地域を囲っていた城壁のあと。そんな大聖堂の周りにあった城壁もウィーンの城壁と同様に20世紀初めにはすっかり取り外されてしまって、結果的に教会の前は広い広場がでできることになる。教会の入口入って右側を見てみると、聖母マリアの肖像画が飾られたエリアがある。このマリア画の前には常にろうそくが点され、信者と訪問者がひっきりなしにこの前でお祈りをしている。なにしろ、大聖堂のメインであるから、そのメインをお祈りせずにしてこの教会に来るのは変だといわんばかりだ。そして個人的にはちょっと吃驚したのはマリア像ではなく、マリア像の右側、入口の壁の右側にあたるところに、見たことも無いような暗号のような文字とともに、キリストの磔の様子みたいな情景をモチーフにした像が立っている。これは、もうクロアチアにしか残っていない古代グラゴール文字であり、その前に立っている像はこの文字を作った宣教師キュリロスとその弟子メトディウスである。この文字については別の項目で記載したいとおもうのだが、この文字を壁いっぱいに書かれている様子をみたときには、正直どこの不真面目な人間が書いたいたずら書きなんだろうとおもってしまった。正面の祭壇のほうに行ってみると、これまた普通の大聖堂とはなんだか異なるものがここにもあることに気づく。通常、大聖堂というのは、正面にキリストの像か肖像画があって、それに対して厳かな装飾を周りを飾っているという構成が普通。しかし、ここの大聖堂に飾られているのは、正面にはキリストに関するものは飾っていない。もちろん、ステンドグラスは見事なものなのだが、それよりも気になるのが、祭壇に巨大なハコが置かれていること。そして、そこには枢機卿が着る赤い礼服を着た蝋人形が横たわっているのである。ガラスケースで4方向から見える形になっているので、どこからでもみることができるのだが、そんな蝋人形がここに置かれているには理由がある。実はこれ、ザグレブの大司教であったステピナッツ(Alojzije Stepinac)のちゃんとした墓である。この大司教は、第二次世界大戦後に戦争犯罪人として、彼は判決後に強制労働をさせられることになる。じゃ、なぜこの大司教が戦争犯罪人として告発されることになったのか?それは第1次世界大戦終了後の1918年までさかのぼらないといけない。メモとして残しておきたいので、長文になるのを覚悟で、その理由を記載しておきたい。1918年の第1次世界大戦によってオーストリア=ハンガリー二重帝国は敗戦国になった。これによってハンガリーは分割されることになり、それによってユーゴスラビア王国ができる。これまでクロアチアはハンガリーの領土内のいち地域であったが、カトリックを主の宗教とした国家として君臨していた。しかしながら、建国されたユーゴスラビア王国は、セルビア人の国王による統治であったために、セルビア正教が主たる宗教として国家ではもてはやされることになる。これによりセルビア人は「大セルビア主義」を助長させることになるのだが、それとは反対にクロアチアでは宗教が異なるセルビア人の台頭をあまり歓迎することは無く、当初からユーゴスラビア王国に対して反発が強かった。当然、カトリック教会としても、これまでのオーストリア=ハンガリー二重帝国時代のように丁重に扱われるかとおもわれたが、セルビア正教優勢の統治下においては、カトリックの拡大は振るわない。そこでクロアチアのカトリック教会はバチカンに助けを求める。ちょうど機運はクロアチア国内で、ユーゴスラビア王国からの独立を叫ぶ声が高くなった時期と同調する。ヴァチカンとコンコルダート(政教協定:Concordat)を結ぶことで、国内での自治権を確保しようとしていた。議会にも批准が通ったのだが、ここでセルビア人たちがぶちきれる。そんなときに、ドイツからヒトラーがヨーロッパ国内での勢力拡大のためにユーゴスラビア王国にも侵攻してきた。ユーゴスラビア王国は解体させられ、クロアチア地域はヒトラーによる傀儡政権のクロアチア独立国(NDH)が建国される。このクロアチア独立国はカトリックを正式な宗教としていたので、当然、クロアチアのカトリック教会は、NDHの建国を「歓迎する」と表明したわけである。このときの大司教が問題のステピナッツ。問題はここからで、ステピナッツが積極的に関与しているかどうかが裁判の対象になったわけなのだが、NDHはクロアチア国内にいるセルビア人を徹底的にいじめた。いじめたという表現よりも虐待したといったほうがいいかもしれない。国内にいたセルビア人の1/3をまずはクロアチアから退去命令を出す。そして、1/3を殺害、残った1/3をセルビア政教からカトリックへ改宗させるという手段に打って出たのである。しかし、ここまで残虐なNDHのやりかたに教会側はすべてを協力的にするわけが無い。だんだんNDHの野蛮なやり方に対して反感を持つようになり、NDHと距離をおくようになるのだが、それを正式に表明していなかったことにのちに誤解を生じることになる。
第二次世界大戦後、チトーがユーゴスラビアを1つの共産主義国家として統一することが目的であり、その障害になるのが、各民族主義だった。クロアチアでは特に教会がNDHと協力していたということが民族主義の主たる根源だと見られていたので、まずはクロアチアのカトリック教会が政治活動に介入するのを阻止しようとした。もちろん、逆に教会側も政府の教会活動への介入を阻止したかったので、戦前にNDHと協力したことを否定する声明を出す。しかし、これがユーゴスラビア政府に対して火に油を注ぐ結果になる。これによりクロアチアの教会の指導者になっているステピナッツは訴追されるわけだ。
減刑され故郷に軟禁されたステピナッツに対して1951年にローマ教皇ピウス12世は、性懲りも無く戦前のコンコルダートの影響からか、ステピナッツを枢機卿に任命する。通常、枢機卿に任命された場合、教皇選挙に出席しなければならない。しかし、そのヴァチカン詣出に対してユーゴスラビア政府は軟禁のまま出国を許さなかった。アウン・サウン・スーチーさんのように軟禁のまま彼は死んでしまう。クロアチアに民主国家ができたときに、ステピナッツの刑は無効であると最終判断し、さらにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は彼の墓の前で祈りを捧げている。
彼はクロアチアの独立を誰よりもずっと望んでおり、それはクロアチア人の誰もが思っていたことでもある。なのでこの大聖堂はクロアチア人にとっては独立のために戦ったひとたち全員の思いが込められた特別な教会なのだと言えよう。決して首都にある大きな教会であるというだけの理由ではないのだ。
ちなみに、昼間にいくのもいいのだが、夜にこの大聖堂を広場からみるというのもまた格別に綺麗な風景であるので、夕涼みとして見に行くのもいいとおもう。イェラチッチ広場の喧騒から考えるとかなり静かなところであるのがわかるとおもう。
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