ザグレブの中心地というと、ザグレブ中央駅周辺ではなく、イェラチッチ広場(Trg Bana Josipa Jelacica)のあたりだといえよう。この大きな広場には路面電車は走り、なにかしらのイベントが常にやっており、周りにはレストランやカフェや、銀座のように商業地域としてたくさんの建物が建てられているからである。一番人通りが多いエリアだといって良いだろう。この広場がイェラチッチ広場と名づけられているのは、その中心地の建物側に銅像が建っており、その人に由来するものである。その銅像は騎馬像として、いまにも動き出しそうな躍動感がある銅像であり、「おまえら、俺に続け~!」と言わんばかりの雰囲気が醸し出している。銅像の主はヨシップ・イェラチッチ伯爵(Josip Jelačić)。とても男気のあるクロアチアの将軍として君臨した人である。時はハプスブルグ家統治下の時代であり、オーストリアの皇帝の支配ではあったのだが、国家としてのクロアチアはハンガリー王国に従属するような位置づけされていたものである。ハンガリーはクロアチアを含めた統治地域に対して、自分たちの言語であるマジャール語を強要しようとしたり、クロアチアの行政制度を廃してハンガリーの法律を通そうとしていたために、ハンガリーに対してクロアチアは弱い立場ながらも反感を持っていた。そんなときにハンガリーが、オーストリアに対して、自主独立を望んで反旗を振りかざす。これがいわゆるウィーン革命(1848年)である。オーストリア各地において独立運動が起こることになるが、普段からハンガリー憎しであり、本当の主人であるオーストリアには忠実でいたいと思っていたクロアチアは、ハンガリー鎮圧のために、オーストリアの保護の下成敗をする。結果的にはハンガリー鎮圧に繋がることができたので、クロアチア国内からは、抑圧者ハンガリーに抵抗してハプスブルグ家にc自治権を要求した民族独立運動の英雄としてあがめられることになる。
彼の死後、彼の銅像がこの広場に立てられることになるのだが、そのときには広場の右の方にある場所に立てられいた。ところが社会主義国家であるユーゴスラビアに組み込まれたとたんに、民族主義は一切消される結果になり、その英雄的シンボルであるイェラチッチの騎馬像は広場から撤去されることになる。ところが有志による像の保存はされたいたようで、ユーゴからの独立後の1991年にまたこの広場に戻されることになるのだ。この像が戻される様子は、クロアチア歴史博物館(Hrvatski povijesni muzej)にビデオインスタレーションがあるので、それを観るのがわかりやすいと思う。像が戻されたときの祭りの凄さは大変なものだ。それだけクロアチア人にとって、イェラチッチ将軍は英雄なのである。
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