2011/10/09

ジャーナリズム崩壊

上杉隆氏の著書「記者クラブ崩壊-新聞・テレビとの200日戦争-」に続いて、「ジャーナリズム崩壊」を読む。ますます普段テレビをみたり新聞を読んだりしている内容が、本当の事なのだろうか?と思うようになってきた。すべてが嘘と適当な記事に見えてきたのである。最近の新聞は、字が大きく、そして1つの記事の内容が薄っぺらく、そして新聞自体が広告ばかりで埋もれている上に、厚さが薄いというのが最近は普通と思えるようになってしまっていた自分が怖くなった。たまに海外に行くと、ホテルに運ばれる新聞の厚さが厚いこと、厚いこと。それも記事はほとんど小さい字ばかりでみっちり書かれている。これこそが新聞だというのを毎回考えさせられるが、海外でこういう体験を全くせず、日本で生活しているだけのひとにとっては、この日本の新聞の異常さには全く気づかないのだろうと思う。

テレビも同じだ。どこのチャンネルを廻しても、ニュースといっても薄っぺらいニュースばかりが目立ち、ニュースの中にどうでもいいようなどこの店の食べ物は美味いとかのようなニュースにしなくても良いだろうというような、娯楽的要素がばかりが濃いようなニュース番組ばかりが増えてきた。政治的なニュースであるなら、テレビ局全体がその政策に対してどちらかを支持しているというようなものであれば良いと思うが、なぜか日本の場合は昔から横並びが当たり前になっていて、それが当たり前というのをカモフラージュするために「中立的な報道をしている」とふざけた単語、つまり詭弁な理由を立てて視聴者を馬鹿にしている。

なんだか日本のマスコミはおかしいなーとおもっていたところに、福島の原発事故が発生した。その事故のせいで、もっとマスコミは東京電力に対して強い現状の事故の悲惨さと今後の対策についてお目付け役のような役割をするべきなのに、なぜか一般市民が知りたい、放射能漏れのことについては全く報道しないことと、福島原発の復興作業について、率先して現場に入らずに、どうなっているのかを報道しない。たとえ放射能まみれになったとしても、現場の悲惨さはこんなことになっているとか、復興活動は全く進んでいないということを率先して取材して報道するべきなのに、伝聞記事やツイートで流れてきたものをそのまま載せていたりするから、一体彼らはなにをしているのか?と疑いたくなった。それもそのはず、大スポンサーであった東京電力に不利になるようなことは、新聞やテレビ局にとっては金になる会社の悪口になるようなことはかけないというふざけたことをしているからなのである。これに一般市民は怒り、twitter で本当の情報を仕入れるようになる。

そんなマスコミ全体が馬鹿になっている様子をまとめて書いてくれているのが、上杉隆の著者である。

言葉として聞いていた記者クラブという組織が、本当に無意味で自分たちにとっての都合の良いようにしか働かない組織になっているこの無意味さは本当に日本の報道組織のガンとしか思えない。まず記者クラブというのが、テレビと新聞各社しか認められず、フリーランスや雑誌の出版社などは記者クラブに入る資格もなし。そして、記者クラブのやつらは、雑誌や週刊誌の記事を自分たちの記事と同等に扱わず、下等生物が喋っていることととしか思っていないところだ。つまり、週刊誌や雑誌の記事は芸能人のゴシップ程度のものと思っているところ。しかし、だいたい大きな政変になるような場合は、週刊誌で報じられた記事が発端になることが多い。そして、そういう記事は、自分たちが本当は報道するべきところを先に報じられたことによって、本来ならば、引用先のソースを明かした上で、記事にするべきところなのだが、そのソースを一切隠して、すでにソースは一般市民に明らかになっているのにも関わらず、「一部の週刊誌が報じたところによると・・」とごまかして報道している。欧米のマスコミでは、絶対にソースを明かした上で報道しているのに、これでは中国共産党の息がかかった人民日報はひどい出版社だと馬鹿にしていた日本の出版社が全部、人民日報と同じくらい馬鹿な出版社に見えてきて仕方がない。報道とはソースを明らかにしたものが信用を得るのである。

そして、上杉隆氏の本によって、「なるほどー」と思ったこともある。それは欧米の出版社、つまりマスコミでは、過去に自社が報道した内容について徹底的に間違いがあれば、その間違いに対して、なぜ間違ったのか、その報道方法や内容について、同じ新聞紙上で報告しているということだ。自社の社員が記事にしたことについて、どこだけ責任を持って報道を出版しているかということである。ところが、日本のマスコミではまず新聞もテレビも自分たちが間違って報道していたということをしたことがないし、見たことがない。そして、間違いについて徹底的に調査した上で再報道しろということを国民が全く言わないのも不思議である。しかし、それは日本人の多くが「間違いの訂正報道は不要」だということを刷り込まれてしまった結果なのかなという気がする。テレビでは、たまに「一部報道の内容について間違いがありました。お詫びいたします」と、番組の最後にちょこっというだけは見たことがあるが、その間違いについて、一言言えば良いだけで許されると思っているところが間違っている。

バンキシャと呼ばれる政治家にぶら下がっているような記者が、実はベテラン記者で構成されているのではなく、若い人で何も知らないようなひとがぶら下がりになっているということの事実も知った。芸能記者みたいに結構年配の、政治の世界は深く知っているというような人や、その分野に関して深い知識を持っている人たちがてっきり政治家の記者会見の場にいるのかと思っていたが、これは大きな間違いだった。この間入社してきたような若い人間で、その分野のことも何も知らないようなやつがインタビューしたのであれば、国民が知りたい深い内容について、記者が質問をすることもできないだろうし、政治家から本音を聞きだすこともできないだろう。もっと悪い慣習は、自分が付いた政治家が出世したら、その記者も社内のなかで出世するということである。となると、最初は記者としてお目付け役的な役割を演じたつもりでいたとしても、そのうちに出版社の経営者の方にキャリアアップしていくわけで、そうなると会社経営者として政治家を見ることになる。記者はいつまでも記者としての目線で物事をみなければならず、マネージャやディレクターの要素はあってはいけないのだが。ところが、読売新聞の渡邉みたいな、記者あがりの経営者がいたりすると、心はいつでも政治家の記者のような顔をしつつ、会社の経営者でいなくてはいけなくなり、そうなると、政治家と記者は超えてはいけない関係があるはずなのに、出版社の単なるオッサンがなぜか政治に首を突っ込むという、滑稽な情況が生まれるのである。これをおかしいと思わないほかの出版社も、完全に同じような構造であり、単に渡邉みたいに目立っていないだけだというのがよくわかる。

悪いのは記者クラブだけではない。政治家も悪い。民主党の岡田や国民新党の亀井のように、自ら会見を開くようなひとであればいいのだが、多くの政治家は、記者クラブにおんぶに抱っこになっているやつらが多いという事実だ。外国人記者が直接大臣にインタビューを開きたいと大臣に言うと「私はOKだが、記者クラブにも連絡してOKを貰ってきてください」と言われるらしい。自分たちを出し抜いて、記事が外にでるのを防止している記者クラブにとっては、一緒に会見の中にはいるか、勝手に単独インタビューをしてもらっては困るから、結果的には大臣のOKは貰ってもインタビューができないという不合理な結果になるということも、この本の中でわかった。

一体、日本のマスコミは何を目指して、何を守ろうとしているのだろうか?これは単に自分たちを守るために、意味不明な組織をつくり、記事を読む読者をないがしろにしているだけなのである。これじゃ、新聞離れになるのは当たり前。だが、新聞社の人たちは記事が売れないのは、ネットに無料の記事があるからだとバカな意見を言う。無料のネットの記事と、有料の新聞の記事を変えればいいわけで、新聞の内容をとても深い内容にすればいいのであるが、それに気づいていない。新聞は中立である必要はない。是でも非でもどちらかの意見をもって報道すればいいのである。中立であるなら、何社も新聞社は要らないのだ。読者のほうもバカじゃないので、なにかを支持するような新聞であれば、自分の信条と同じならその出版社の記事をかじりついてでも読むだろう。内容は薄いは、何が言いたいのかもわからないわ、内容を支持するのか支持しないのかも明確にしていないような記事なんか、誰が読むというのだ?

日本のマスコミのおろかさを、この著者でとてもよく理解させてくれたと思う。だから、上杉隆氏は日本のマスコミに嫌われるのである。なぜなら本当の事を暴露してしまったからだ。がんばれ、上杉隆。

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